2015年5月4日月曜日

坂本龍馬(井原剛志)現る!!花燃ゆ

1862年文久2年1月 坂本龍馬が松下村塾を訪れた。

久坂玄瑞に会うためであった。

坂本龍馬は、武市半平太(瑞山)の使者として手紙を持ってきたのだ。

久坂玄瑞は、長時間坂本龍馬と話し合った後、武市瑞山あてに手紙を書き、坂本龍馬に託した。

「草莽(そうもう)の士を糾合し、義挙の他に策なし」としたためてあった。

このころ長州藩は朝廷と幕府のどちらも立てる策を決定していたが、これでは外国には太刀打ち出来ない、志を持った若者が立ち上がらなければならない、それが吉田松陰へ報いる唯一の道だと、久坂玄瑞らは思っていたのだ。

ところで、坂本龍馬は、土佐藩を脱藩し勝海舟に弟子入りする。
そして海軍の戦闘指揮を学ぶ。

その後西郷隆盛とあって、薩摩藩の後ろ盾を得て亀山社中を設立する。
今で言う商社のようなもので、外国と武器や商品を取引する会社である。

もちろん、すごい金が必要だったが、当時お金持ちだった薩摩藩が、援助したのだ。
薩摩藩は、沖縄(琉球)と東南アジアの国々と密輸で栄えた藩である。表に出せない金を、使うために坂本龍馬を利用したとも言える。

一方、坂本龍馬は、イギリスが世界の武器を牛耳る最強の国であることを知り、さつま、長州などに武器を手配して、稼ぎと信用を得ていく。
イギリスは、日本を牛耳るために、坂本らの力を利用した、すなわち、戦争で自らの血を流さずに日本に開国させ、利益を得る国にしようという目論見があったといえる。そのために、龍馬たちに莫大な資金援助をしたと思われる。

海援隊はイギリスの援助で出来たと言われる。

坂本龍馬は、武器取引を通じて薩摩藩長州藩と交流し、ついに薩長同盟にこぎつける。

最後は、慶応3年11月15日京都河原町で暗殺され落命。 花燃ゆ 18回 草莽崛起(そうもうくっき)とは?

0 件のコメント:

コメントを投稿