2015年8月24日月曜日

花燃ゆ 35話 孤高の戦いで高杉晋作ら長州軍の反撃

1866年慶応2年 坂本龍馬の仲介により長州と薩摩はついに手を結んだ。 長州藩からは桂小五郎、薩摩藩からは西郷隆盛が、それぞれの藩の名目やメンツにこだわってなかなか会おうとしない。 長州藩からは薩摩藩の食糧事情をおもい、コメを薩摩藩に送ったり、薩摩藩は坂本龍馬の亀山市中という商社を通じて、武器を買い入れたり船を用意することで、長州藩を支援する形を作っていたにも関わらず、なかなか同盟を結ぼうとしなかった。 日本の将来なのか、藩の命運にこだわるのか、長州藩は藩論を二分し論争を続けていたが、ついに藩主敬親が英断を下したのであろう、薩長同盟が成立したのだった。 しかし、これはまだ幕府はしらないところであり、幕府は征長軍15万を組織して、長州に向かっていた。 これを向かいうつ長州軍はわずかに6000人。 多勢に無勢ではあっても長州藩の藩論はついに統一され、幕府軍を迎え撃つための軍と農民などの団結が強固なものになっていった。 幕府は、大軍を背景に毛利敬親と元徳に官位剥奪の上広島までの出頭を命じてきた。 小田村伊之助(大沢たかお)は、毛利藩後継の元徳の代わりに広島に出向き、そのまま身柄を拘束されてしまう。 一方幕府軍と長州軍との戦況は、圧倒的優勢を信じていた幕府軍が、長州軍の最新鋭の火器や高杉晋作の軍船による砲撃を受け、ひとたまりもなく敗退したのだ。 この背景には西郷隆盛ら、禁門の変で長州軍を敗退させた薩摩軍が、出兵拒否を幕府に通告したことが大きく影響したのだ。 小田村伊之助は釈放され、情勢は新しい日本に急速に突き進んでいくことになる。 翌年慶応3年1867年、薩摩軍はついに武力倒幕の方針に転換し、長州軍とともに進撃を開始することになる。

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