久坂玄瑞とは、吉田松陰の妹、杉文を娶りました。1857年
元は、長州藩の藩医、久坂良迪(りょうてき)の3男に生まれました。
14歳の時母死亡、翌年兄と父が死亡天涯孤独となりました。
小さい頃から天才と言われ、寺子屋や医学処などで学びました。
1856年に九州を歩いた時、肥後藩士 宮部鼎蔵に会いました。
宮部鼎蔵から吉田松陰へ入門せよと勧められ、17歳の時に萩に帰って松下村塾に入門しました。
吉田松陰は、久坂玄瑞を「縦横無礙(じゅうおうむげ)」と称し、妹の文と目合わせました。
この時、文はまだ15歳でした。
久坂玄瑞は、高杉晋作とともに松下村塾の双璧と言われました。
松下村塾では、入江九一、吉田稔麿(としまろ)、高杉晋作とともに四天王と言われました。
安政の大獄で吉田松陰が江戸送りとなって斬首となった後、久坂玄瑞はその意志を継いで、奔走します。
その結果、長州藩の執政、周布政之助(すふまさのすけ)を動かして、藩論を攘夷へと転換させました。
1863年文久3年、攘夷のための光明寺党を創設しました。
同年、長州藩は京都を追われることになり、久坂は出直しとなりました。
長州藩の冤罪を朝廷に訴えましたが聞き入れられず、入江九一、寺島忠三郎らと軍を組織して京都に攻め入り、会津藩らと戦いました。
戦況は不利のまま、銃弾に狙撃され重症を負いました。
久坂玄瑞は事ここに至れりと察し、寺島忠三郎と刺し違えて自刃しました。
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