花燃ゆ
吉田松陰ついに処刑される吉
田松陰は日本の将来を憂いていました。安政五年(一八五八)の六月十九日、大老・井伊直弼が
アメリカと日米修条約を締結無勅許で締結したとの知ら
せを受けて、幕府は外圧に屈した、「将軍こそ天下の賊。
今こそこれを討たなければ後世の恥」とし、幕府を目覚
めさせるために、当時井伊直弼の命を受けて朝廷工作や
反対派の弾圧を行っていた老中・問部詮勝を塾生らとと
もに殺害する計画を立てたのです。
しかも、事もあろうに、藩に武器弾薬の借用を願い出た
のです。
慌
てたのは長州藩。それまで松陰に好意的だった藩士たちもさすがに今回ばかりは異を唱えました
。老中殺害など、とんでもない、幕府への宣戦布告では
ないかというわけです。
藩
当局により松蔭はただちに松陰に自宅謹慎を命じられ、のちに野出獄に繋がれてしまいました。
井
伊大老の方は、条約調印後尊皇攘夷を唱える不穏な動きを封じ込めるために、大弾圧を行っていました。
これが「安政の大獄」です。
藩
は、松陰の計画を幕府に隠していましたが、当時、政治犯として京都で捕えられた勤王家・梅田雲浜が萩を訪
れた際に松陰と会っていたことが判明し、幕府は松陰を
江戸送りにするよう命じました。
吉
田松陰が江戸についたのは6月24日のことです。松陰は江戸に送られる前、すでに自分の末を悟り3人の
妹に別れの手紙を出していました。
「この度、たとえ命を捨てるようなことがあっても、国
のためになるのなら本望である」と。
ま
た、父の百合之介にも別れの手紙を書いていました。それは、正義と至誠を貫いて幕府に立ち向かうという決
意に満ちた内容だったと言われます。
7
月には、厳しい取り調べが始まった。伝馬町の牢獄の中では、牢名主が「鶴」という金を目当
てに牢の中のしきたりを支配していましたが、高杉晋作
の計らいで牢名主とも話ができるようになっていました。
牢
名主から「取調べ中の甘い言葉は罠である」と聞かされていましたが、松陰は奉行の質問に対して持論を展開
しました。
そ
れは井伊大老に直接会うための計略として、なんと、間部老中を京都において諫める考えがあったと自ら話し
だしたのです。
せ
っかく奉行らの間で「遠島」と決まっていたものを、自らの「死罪に相当する」などの発言で井伊大老を怒ら
せ、「死罪」になってしまいました。
10
月27日に斬首となる前に、塾生あてに遺言「留魂録」を書き上げました。
30年の若き激動の人生でした。
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