2015年4月27日月曜日

花燃ゆ 吉田松陰ついに処刑される

花燃ゆ

吉田松陰ついに処刑される


吉

田松陰は日本の将来を憂いていました。
安政五年(一八五八)の六月十九日、大老・井伊直弼が
アメリカと日米修条約を締結無勅許で締結したとの知ら
せを受けて、幕府は外圧に屈した、「将軍こそ天下の賊。
今こそこれを討たなければ後世の恥」とし、幕府を目覚
めさせるために、当時井伊直弼の命を受けて朝廷工作や
反対派の弾圧を行っていた老中・問部詮勝を塾生らとと
もに殺害する計画を立てたのです。
しかも、事もあろうに、藩に武器弾薬の借用を願い出た
のです。

慌

てたのは長州藩。それまで松陰に好意的だった藩士た
ちもさすがに今回ばかりは異を唱えました
。老中殺害など、とんでもない、幕府への宣戦布告では
ないかというわけです。

藩

当局により松蔭はただちに松陰に自宅謹慎を命じられ、
のちに野出獄に繋がれてしまいました。

井

伊大老の方は、条約調印後尊皇攘夷を唱える不穏な動
きを封じ込めるために、大弾圧を行っていました。
これが「安政の大獄」です。

藩

は、松陰の計画を幕府に隠していましたが、当時、政
治犯として京都で捕えられた勤王家・梅田雲浜が萩を訪
れた際に松陰と会っていたことが判明し、幕府は松陰を
江戸送りにするよう命じました。

吉

田松陰が江戸についたのは6月24日のことです。
松陰は江戸に送られる前、すでに自分の末を悟り3人の
妹に別れの手紙を出していました。
「この度、たとえ命を捨てるようなことがあっても、国
のためになるのなら本望である」と。

ま

た、父の百合之介にも別れの手紙を書いていました。
それは、正義と至誠を貫いて幕府に立ち向かうという決
意に満ちた内容だったと言われます。

7

月には、厳しい取り調べが始まった。
伝馬町の牢獄の中では、牢名主が「鶴」という金を目当
てに牢の中のしきたりを支配していましたが、高杉晋作
の計らいで牢名主とも話ができるようになっていました。

牢

名主から「取調べ中の甘い言葉は罠である」と聞かさ
れていましたが、松陰は奉行の質問に対して持論を展開
しました。

そ

れは井伊大老に直接会うための計略として、なんと、
間部老中を京都において諫める考えがあったと自ら話し
だしたのです。

せ

っかく奉行らの間で「遠島」と決まっていたものを、
自らの「死罪に相当する」などの発言で井伊大老を怒ら
せ、「死罪」になってしまいました。

10

月27日に斬首となる前に、塾生あてに遺言「留魂録」
を書き上げました。
30年の若き激動の人生でした。

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