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2015年8月16日日曜日

花燃ゆ 34話 どうなる薩長同盟 NHK8月23日放送

花燃ゆ33話では、高杉晋作(高良健吾)の騎兵隊再結成と武装蜂起により、吉田松陰(伊勢谷友介)と美和【文】(井上真央)の兄杉梅太郎(原田泰造)らが組みする東光寺組の和平提案が、藩主毛利敬親に認められ、藩政は椋梨藤太(内藤剛志)ら徳川幕府恭順派(俗論派)から倒幕派(急進改革派)に実権が移行することになった。

 これにより小田村伊之助(大沢たかお)は野山獄から解放され、藩政に加わることになった。

 野山獄を出るとき、獄囚であった高須久子(井川遥)にあって、伊之助は聞いた。
 「あなたは出ていかないのですか?」
 「私はここにとどまります。」と久子は言う。

 この高須久子、毛利藩の上級武士の妻として夫に先立たれてから、三味線弾きを自宅に招き入れたことを科とされ野山獄に繋がれた。


 以来13年もの長きにわたって、獄囚として、吉田松陰や志を持った人たちの生き方を通して、当時の日本の行く末を見てきた。 

彼女の思いは、獄を出ても戦乱の世、帰る家にも辛さがあることで、しばらくはとどまることにしたのであろう。

 彼女は、明治初期、維新の世の中になって出獄したという。


 さて、一方、俗論派の椋梨は、自分の思いを藩主毛利敬親に伝えたくもかなわず密かに、藩を抜けだした。

そして、津和野で捕まるのだが、彼は彼で精一杯自分の正しいと信じる道をひたすら選んできた。 

改革派の周布政之助(石丸幹二)も椋梨に追い詰められ自ら切腹となったが、両者とも武士としてその武士の一分を全うしたといえる。

 その意味で、その心を小田村伊之助は知っていた。 


小田村伊之助は、その後藩命により大宰府に滞在するが、そのとき、坂本龍馬(伊原剛志)に会うことになる。 

龍馬は、日本の将来像を伊之助に示し、新しい世の中の仕組みが必要であることを説き、薩長同盟を提案する。

 この提案を持ち帰ったときに長州藩は騒然とする。 

なにしろ、長州藩にとって薩摩藩は、8月18日の政変により、長州藩を京都から追いやり、文の夫久坂玄瑞を死に追いやった敵なのである。

 この薩摩藩と同盟するなどもってのほかというのが、当初の藩の内情であった。

 しかし、このまま外患内憂を指を加えて見ているわけにも行かないのが長州藩であった。

 なにしろ幕府の達しにより武器の購入は禁止され、また財政も逼迫、長州藩が単独で幕府に立ち向かえるほどの力は未だない状況の中、もし、薩摩との同盟が成功すれば、武器を薩摩藩から借り入れることにより、一気に倒幕をなしうるかもしれないとの思惑もあった。


 薩摩藩は、かねてより幕府の手ぬるい外交政策に異論があり、藩内に倒幕の意見も多々あった。

しかし、幕府に公然と反旗を翻すことは躊躇していた。 

そこに現れたのが坂本龍馬、

「大量の武器をイギリスから買い求め、それを長州藩に貸し与え、そして倒幕の機運をもり立てる、その後ろ盾に薩摩藩が座る、そして土佐藩も協力する」

そのためには、何としても「薩長同盟」が必要、と説いた。 


長州藩では、これにいち早く賛成を唱えたのが高杉晋作であった。 

長州藩では、この高杉晋作の影響もあり、異論を唱えていた木戸孝允(桂小五郎=東山紀之)もついに薩長同盟に乗り出すことになる。


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2015年8月15日土曜日

花燃ゆ33話 それ以降の物語 ネタバレ!!

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、平均視聴率12%程度で推移してきていますが、内容的にはなかなかしっかりした重厚な歴史物になっていると思います。

あの吉田松陰の妹として生まれた「文」の生涯を描いた歴史ドラマではあります。

幕末から明治維新の時代にかけての壮大なドラマは、イギリスを始めとしたヨーロッパの列強が、インド中国と世界制覇を目指して、侵略を続ける中、日本は幕府の鎖国政策により、この海外列強による脅威をほとんどが知らなかった。

そんななか、今の山口県萩にあった長州藩に、吉田松陰が出現した。
この天才的な戦略家はいち早く海外列強による日本侵略のおそれを察知し、幕府の政策に行き詰まりを感じて、自らの思いを松下村塾の塾生に託した。

吉田松陰は、その思想が幕府にとっては過激であり脅威であった、そのため、井伊大老の安政の大獄により処刑されることになり、その志は、塾生であった久坂玄瑞(文の夫)や高杉晋作などの引き継がれていった。

長州藩には、幕府の政策を改革すべしとの改革派や、幕府に恭順を示すべしとした保守派が対立し、一時は、保守派により多くの松下村塾の塾生が粛清された。

32話では、吉田松陰の親友であり義弟である小田村伊之助が野山獄に繋がれ、その生命も風前の灯であったところ、高杉晋作の蜂起により長州藩は内戦状態となり、これを機に保守派は藩を追われることになった。

保守派首班格の椋梨藤太は、逃亡が見つかり斬首となって長州藩は、幕府に対しても強い姿勢を取ることになっていった。

1865年長州藩にとっては激震の年。野山獄から解放された小田村伊之助は藩政に復帰した。
そして、藩主毛利敬親により大宰府行きを命ぜられ尊攘派であった三条実美らとの連絡係をつとめた。

さらに、この年坂本龍馬の頼みを聴き、桂小五郎と坂本龍馬を仲介するなど、いよいよ薩長同盟に向けて歴史は動き出した。

この年、文の父、杉百合之介が病で倒れ、死す。

翌年、幕府と長州藩との関係修復のため小田村伊之助は、毛利敬親の名代として幕府に会うも、身柄を拘束されてしまう。

しかし、第2次長州戦争が長州藩の大勝で終わったことから釈放される。

物語は更に続くが、34話目を見てからにしよう。

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なかなか美味。秋の味覚として美味しくいただきました。

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2015年8月11日火曜日

花燃ゆ 小田村伊之助(大沢たかお)の命は風前の灯

花燃ゆ 小田村伊之助(大沢たかお)の命は風前の灯


8月2日日曜日の「花燃ゆ」は、小田村伊之助が野山獄に繋がれて、処刑
される寸前であった。

お城の奥に上がっていた文は、伊之助の妻、寿の必死の頼みもあり、何
とか助けようと、保守派俗論派の椋梨(むくなし)に懇願するのだが、
聞き入れられず、伊之助の兄「松嶋剛蔵」も斬首となった今、伊之助の
命は風前の灯であった。

そのころ、高杉晋作は長州藩の探索の目をかいくぐり福岡まで逃げ延び
ていた。必死に吉田松陰とその仲間の意思を継ぎ、新しい日本を作ると
いう強い意志で、ついに解散寸前の騎兵隊を立て直し、挙兵した。

これにより長州藩の俗論派の勢力が衰え、伊之助はスンデのところで野
山獄から釈放された。

その後、小田村伊之助(素太郎と名前をあらためていた)は、藩の命に
より大宰府に渡り三条実美ら尊攘派との連絡係として活躍、しかも、坂
本龍馬が薩長同盟の画策にやってきた時に、坂本の頼みを受け桂小五郎
と坂本を引きあわせた。

慶応2年に第2次長州征伐があり、小田村は幕府軍に捉えられ投獄される。
開戦後6月に釈放され、長州藩の中でさらに毛利敬親の信任を得て奥番
頭になった。

さらに敬親からは改名を命じられて「楫取素彦(かとりもとひこ)」と
なった。

その後大政奉還、明治新政府となるが、新政府では「群馬県令」となっ
た。

明治14年妻・寿が病死、明治16年文と結婚した。
文は、初恋の人とここで結ばれた。文41歳、素彦55歳であった。


花燃ゆ 8月16日 ネタバレ!! 椋梨藤太処刑か?

花燃ゆ 8月16日 ネタバレ!! 椋梨藤太処刑か?


先週美和(井上真央)は、兄の梅太郎(原田泰造)が長州藩と高杉晋作
の騎兵隊を和睦させようと藩主毛利敬親(北大路欣也)に目通りをした
いと決死の覚悟であることを知り、単身敬親に近づこうとするが、正室
の都美子に遮られてしまった。


しかし、そのひたすらな藩を思い、銀姫に生まれてくる子を思う一念が
通じ、ついにお目通りを許されたのだ。

そして、梅太郎の粘り強い必死な思いが通じ和議へ通じる会談は成功し
た。
高杉晋作らが決起した騎兵隊の内乱はついに収束し、荻は、戦火を免れ
銀姫(田中麗奈)がすむ場所も安泰となった。

処刑寸前だった伊之助(大沢たかお)は敬親の命により処刑を免れて野
山獄にいたが、この和議により許され釈放された。

先週先々週と、次々と改革派を粛清してきた椋梨藤太(内藤剛志)はつ
いに政権から追放されることが決まるが、椋梨はなかなか納得しない。
ついに椋梨は奥御殿に入って敬親に談判を申し入れようとするが、それ
を阻んだのは美和であった。

美和は銀姫から内々自分の子は自分で育てたいとの意向を伝えられ、奥
御殿を護る責任を感じていたのであろうか、必死で椋梨に対向する美和
であった。


銀姫は無事に男の子を出産した。
その名を興丸(おきまる)という。
銀姫は、いままでの慣習を破り自分の手で育てたい、そして守役をなん
と美和にしたいと発表した。

奥御殿は騒然としたが、最初の守役は美和が務めることとなった。

そんな折、父百合之介(長塚京三)の体調が思わしくなく、美和は父を
心配しながらの奥御殿づとめとなっていった。

父百合之介はこの年1865年8月29日62歳で死去した。

釈放された小田村伊之助は反省に復帰した。
いよいよ、坂本龍馬に会うのも近い。

なお、椋梨藤太は藩を脱出し逃げていたが、津和野で捉えられた。そし
て、野山獄で斬首となった。

気になる高須久子(井川遥)だが、この政変においても許されることな
く、出獄は明治維新までまたなければならないとか。

2015年4月27日月曜日

久坂玄瑞(くさかげんずい)禁門の変で自決する(花燃ゆ)

久坂玄瑞とは、吉田松陰の妹、杉文を娶りました。1857年

元は、長州藩の藩医、久坂良迪(りょうてき)の3男に生まれました。

14歳の時母死亡、翌年兄と父が死亡天涯孤独となりました。

小さい頃から天才と言われ、寺子屋や医学処などで学びました。

1856年に九州を歩いた時、肥後藩士 宮部鼎蔵に会いました。

宮部鼎蔵から吉田松陰へ入門せよと勧められ、17歳の時に萩に帰って松下村塾に入門しました。

吉田松陰は、久坂玄瑞を「縦横無礙(じゅうおうむげ)」と称し、妹の文と目合わせました。

この時、文はまだ15歳でした。

久坂玄瑞は、高杉晋作とともに松下村塾の双璧と言われました。

松下村塾では、入江九一、吉田稔麿(としまろ)、高杉晋作とともに四天王と言われました。

安政の大獄で吉田松陰が江戸送りとなって斬首となった後、久坂玄瑞はその意志を継いで、奔走します。

その結果、長州藩の執政、周布政之助(すふまさのすけ)を動かして、藩論を攘夷へと転換させました。

1863年文久3年、攘夷のための光明寺党を創設しました。
同年、長州藩は京都を追われることになり、久坂は出直しとなりました。
長州藩の冤罪を朝廷に訴えましたが聞き入れられず、入江九一、寺島忠三郎らと軍を組織して京都に攻め入り、会津藩らと戦いました。

戦況は不利のまま、銃弾に狙撃され重症を負いました。
久坂玄瑞は事ここに至れりと察し、寺島忠三郎と刺し違えて自刃しました。

花燃ゆ 吉田松陰ついに処刑される

花燃ゆ

吉田松陰ついに処刑される


田松陰は日本の将来を憂いていました。
安政五年(一八五八)の六月十九日、大老・井伊直弼が
アメリカと日米修条約を締結無勅許で締結したとの知ら
せを受けて、幕府は外圧に屈した、「将軍こそ天下の賊。
今こそこれを討たなければ後世の恥」とし、幕府を目覚
めさせるために、当時井伊直弼の命を受けて朝廷工作や
反対派の弾圧を行っていた老中・問部詮勝を塾生らとと
もに殺害する計画を立てたのです。
しかも、事もあろうに、藩に武器弾薬の借用を願い出た
のです。

てたのは長州藩。それまで松陰に好意的だった藩士た
ちもさすがに今回ばかりは異を唱えました
。老中殺害など、とんでもない、幕府への宣戦布告では
ないかというわけです。

当局により松蔭はただちに松陰に自宅謹慎を命じられ、
のちに野出獄に繋がれてしまいました。

伊大老の方は、条約調印後尊皇攘夷を唱える不穏な動
きを封じ込めるために、大弾圧を行っていました。
これが「安政の大獄」です。

は、松陰の計画を幕府に隠していましたが、当時、政
治犯として京都で捕えられた勤王家・梅田雲浜が萩を訪
れた際に松陰と会っていたことが判明し、幕府は松陰を
江戸送りにするよう命じました。

田松陰が江戸についたのは6月24日のことです。
松陰は江戸に送られる前、すでに自分の末を悟り3人の
妹に別れの手紙を出していました。
「この度、たとえ命を捨てるようなことがあっても、国
のためになるのなら本望である」と。

た、父の百合之介にも別れの手紙を書いていました。
それは、正義と至誠を貫いて幕府に立ち向かうという決
意に満ちた内容だったと言われます。

7

月には、厳しい取り調べが始まった。
伝馬町の牢獄の中では、牢名主が「鶴」という金を目当
てに牢の中のしきたりを支配していましたが、高杉晋作
の計らいで牢名主とも話ができるようになっていました。

名主から「取調べ中の甘い言葉は罠である」と聞かさ
れていましたが、松陰は奉行の質問に対して持論を展開
しました。

れは井伊大老に直接会うための計略として、なんと、
間部老中を京都において諫める考えがあったと自ら話し
だしたのです。

っかく奉行らの間で「遠島」と決まっていたものを、
自らの「死罪に相当する」などの発言で井伊大老を怒ら
せ、「死罪」になってしまいました。

10

月27日に斬首となる前に、塾生あてに遺言「留魂録」
を書き上げました。
30年の若き激動の人生でした。

2015年4月20日月曜日

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」吉田松陰辞世の句

花燃ゆ 4月19日放送
いよいよ吉田松陰が安政の大獄で江戸送りに決まる。

杉家の家族を始め小田村伊之助(大沢たかお)らの尽力にもかかわらず、吉田松陰(伊勢谷友介)は、この機会を捉えてあくまで幕府に自分の主張を伝えようとしていた。

いよいよ江戸送りの前日、司獄の福田(田中要次)の計らいでその番だけ家に帰ることができた。
家族とのひとときを過ごした松蔭の覚悟はすでに決まっていたし、家族も葛藤の末、その気持を心の奥底に閉まって明るい振る舞いをした。
獄を離れる際は獄囚の高須久子(井川遥)から「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」
の書かれた汗拭きを手渡される。
これに感激した松蔭は、萩を一望する涙松の丘で句を読んだ。

高須久子への感謝の意を込めたものであった。
「箱根山越すとき汗のい出やせん、君を想いて拭き清めてん」

そしてもう一句
「一声をいかでわすれん郭公(ほととぎす)」
別れ際に高須久子に一声をかけてもらったことがよほど嬉しかったに違いありません。

その後吉田松陰は、伝馬町に送られついには刑死するのですが、幕閣の大勢が「遠島」の流れだったものを、松蔭自身が井伊直弼に「自分は死刑が相当である」などと主張したため、井伊直弼の逆鱗に触れて死刑となったと聴く。

その辞世の句である。

家族あての句がとても有名である。

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
なんとも親を思う気持ちの深いことか、死にゆく者、必ずと言ってもいいほど親を思い子を思うものである。

もう一句

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
最後までその志を残す永遠の思いがよく伝わる句である。


2015年4月13日月曜日

吉田松蔭はなぜ「吉田」なのか?

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で注目されるのが吉田松陰です。
このひとは、一般的に幕末期の天才的な学者として知られていますが、実は元々吉田姓ではなかったのです。

吉田松陰は、長州藩の下級武士杉百合之介と滝夫婦の次男として生まれました。
そこで最初は杉寅之助と言う名前でした。
5歳の時に、杉百合之介の弟である大助(杉家よりも格上の長州藩山鹿流兵学師範の吉田家の養子となる)の養子となって、姓も吉田となったのです。

その後、大次郎、寅次郎と名前を改め、後に松蔭と名乗りました。

父である百合之介には大助の他に文之進という弟がいて、文之進もまた杉家よりも格上の玉木家に養子に入り玉木文之進と名乗りました。

百合之介、大助、文之進は非常に頭がよく勉学好きの兄弟でした。そのため、大助も、文之進も格上の家の養子に請われたのです。

松蔭は、父と叔父二人に厳しく勉学を仕込まれました。また、吉田家は兵学師範の家柄であったため幼少の時から兵学を学び、11歳の時には長州藩主毛利敬親の前で兵学の講義を行ったと言いますから驚きです。